アフリカとの出会い54

 
 コーヒーにまつわる思い出   

  アフリカンコネクション 竹田悦子

    夫の実家はコーヒー農家。今から8年前、私は彼の実家を訊ねた。

 そこは農園と言うにはあまりにも小さい場所で、コーヒーの木が数本大切に植えられていた。初めて見るコーヒーの赤い実がとても赤かったのをよく覚えている。そこは、標高5199メートルのケニア山の麓に位置し、標高1600メートルに位置する首都ナイロビよりも更に高い標1700メートルに位置する中央ケニア州のニエリ県。昼夜の気温の高低差は激しい。


      【写真上】 コーヒー豆を摘むガスパレイさん
             中央ケニア州ニエリ県キアカンジャ村の実家で




 コーヒーの木は、標高1400メートルから2000メートルの涼しい気候を好み、火山性の乾いた土壌を好む。年間を通じて涼しく、農業に適したこの土地は、白人入植者が見逃すわけがなく、彼らはこの地域を「ホワイトハイランド」と呼んだ。そしてケニアが独立するまでの長い間をイギリス人が統治し、大農園を所有してきた。なるほどニエリの中心街を歩くと、イギリスのコロニアル風の町並み、建物が点在し、一見するとイギリスにいるような錯覚を覚える。

 夫の祖父は若い頃、イギリス人所有のコーヒー農園で働いていたという。彼は当時の雇い主のことを今でも「muzugu(ムズング、白人の意)」と呼び、「白人の下でコーヒーを作っていた」と昔のことを表現する。私が結婚して家族となった今でも、英語を話したがらない1人だ。植民地時代のケニアの過去のこともあまり話したがらない。祖父は性格的にとてもおしゃべりな人だ。なのに、白人の下で働いたことと、ケニアの独立戦争に参加したことについては全くしゃべらない。

 ケニアの独立戦争は、この地域で始まっていったとされている。大土地所有のイギリス人入植者に対して、労働者であったキクユ族が土地の解放を求めて武装し、「マウマウ団」という武装集団を結成し、のちに初代大統領となるケニヤッタを中心としてケニアの独立を勝ち取るきっかけとされている。そのマウマウ団にいたという叔父も又そのことについては、誰にも全く話さないらしい。


       【写真下】真っ赤な実が美しいコーヒーの実



 ケニア独立後1964年頃、叔父はコーヒーを育て始めた。その時に植えたコーヒーの木は、今でも現役だ。私が見たコーヒーの実はまさにその木であった。コーヒーの実は年2回収穫される。5月~7月に1回。9月~12月に1回。祖父は、収穫したコーヒーの実を袋につめ、協同組合の仲買人に売り、組合が、政府管轄のオークションに売り、売値の中から利益を貰うという形で生計を立ててきた。コーヒーなどの農産物は、一次産品と呼ばれ、いろいろな条件に左右されやすく、価格が一定しないのが特徴で、ケニアのコーヒーの値も市場で長い間低迷を続けてきた。

 コーヒー農家としての生活は、厳しいものだったと想像できる。実際ケニアのコーヒーの生産及び輸出は、1980年をピークに減少し、生産性は国際的に見ても決して高くない。特に小規模農家の耕作放棄、生産者の高齢化及び跡継ぎの不足が現代の問題でもあった。

 そんなケニアの貧しさの象徴でもあるケニアの小さなコーヒー農家だが、近頃、驚きの報告を受けた。「1キロ12ドルで買います」というものだ。祖父が去年納めたコーヒーの総生産量は500キロほどだった。なので、6000ドル。日本円に換算すると、50万円ほどになるだろうか。祖父は、過去30年以上のコーヒー作りの歴史の中で、そんな大金を手にすることはなかった。彼の驚きは日本にいる彼の孫にまで伝わってきた。それを聞いた私の夫はとても驚いていた。祖父は80代、父も60代、それぞれの子供達が学費など一番必要だった時代に富をもたらなさったコーヒー。適正な価格での買い取りや価格の安定のための施策について何もしてこなかったケニア政府。コーヒー農家であり続けることには家族みんなの沢山の負担と犠牲があった。

 ケニアでは、紅茶を飲むのが一般的だ。実際、夫の家ではコーヒーの豆も粉も買ったことがないらしい。ケニアの人は、「コーヒーはお金持ちの飲み物」という。実際、コーヒー豆の75%は、ヨーロッパ、アメリカを中心に輸出されている。

 「今年は、コーヒーを飲んでみたい。コーヒーはカフェに行けば飲めるのか?」と祖父は夫に電話で聞いていたらしい。今では、ナイロビを中心にたくさんのカフェが出来ている。エスプレッソ、カフェオレ、アイスコーヒー、コーヒーフロート、何でもある。でも祖父が飲んで見たいと言ったコーヒーはなんと「ネスカフェ」だった。

 ネスカフェは、ケニアでも有名なインスタントコーヒーで、小分けにした袋に10グラムくらい入って5円くらいでどこでも売っている。それを買って飲んでみたいと言っていた。

 生産者の祖父が、ずっと口にできなかったコーヒー。「もし価格が安定していて、家族をきちんと養えていたのなら、僕の人生は別のものだっただろう」と長い人生を振り返る祖父。経済的に恵まれなかった叔父。でも私から見ると、優しい奥さんに、沢山の子供に孫、ひ孫。大きな畑、に、たくさんの野菜。家畜。彼を慕う家族。人が人生で得るべき稔りの全てを得ているのではないかと、思ってしまうのは私がきっと何も知らないからだろう。

 叔父の指を見たことがあった。はさみのせいで、指が変形している。そんなにまでして育てたコーヒーで、家族を養えなかった悔しさだろうか、コーヒーにまつわる過去については何も話はしないのである。

 最近のニューヨークの先物取引市場では、コーヒー先物市場で75%以上の値上がりが記録された。今、コーヒーの豆の値上がりは、市場を熱くしている。

 翻ってケニアの祖父。コーヒーの値段が上がっても下がっても、いつもと同じはさみで、いつもとおなじ場所で、いつもと同じコーヒーの木に話しかけているんだろうなぁと想像している。


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